真剣に語らせてもらいます…
最初にお断りしておきます。先日、白血病について書かれていましたが、反論ではなく、実際に僕自身が白血病~骨髄移植~を経験しましたので真剣に語らせてもらいます。僕自身にとっても良い機会ですから…黙って有耶無耶にしているより情報を提供した方がよいと判断したからです。ひょっとしたら好ましくない…わいおいが暗くなる…と思われるかもしれないですが…それでも書きます。
僕は、18歳で急性リンパ性白血病になりました。(リンパ球がガン化する病気)高校を卒業してから就職して3ヶ月後に白血病を発症しました。最初は、倦怠感と風邪と微熱が約3週間ぐらい続いていました。7月なのに寒気がするし…おかしいと思いつつも仕事に行っていました。レストランで働いていたので包丁で指を切ったことがありましたが、血がなかなか止まらなかったのを記憶しています。それから、しばらくして病院へ行きました。症状を伝えてから採血をして結果が出てから急に看護師さん達が慌ただしくなり、点滴が始ったり、実家の電話番号を聞かれたりと…(当時、岐阜県にいました)なんなんだろうと?何事か?聞いても「安静にしなさい」と。教えてくれない…言われるとおりにベッドで寝ていましたが、数時間後に宮崎の病院へ行くことになり急遽帰ることになりました。後から教えてもらいましたが極度の貧血だったそうです。そして受け入れ先の病院が決まり入院となりました。
ここからが長い数年間を過ごす事になりました。検査はとても痛い…麻酔を腰骨に注射してから単三の乾電池ぐらいの大きさの金属製カートリッジ(これにも針が付いています)を腰骨に刺してそこへ注射器をセットして思いっきり引きます。この時、腰骨の中の骨髄液にかかる圧力のせいでとても痛い… 1回目のときは終わってから痛みとなぜ、こんな事されるのか?と悔しさと、Drに対する当てつけで涙を流していました。この検査ではっきりと病名が分かり治療が始まりました。この時、抗がん剤を使いましたが髪の毛は抜けませんでした。あと輸血をいっぱいしました。1ヶ月で1回の治療をしていきました。そして、4ヶ月後病状も安定してきたので外泊で実家に帰ってから骨髄移植をするか?しないか?家族と話し合いました。僕自身が骨髄移植をする事に対してこの時は、「恐怖と失敗したら…死ぬかもしれない…」そんな事ばかりが頭の中を駆け巡っていました。結局、骨髄移植はしないで投薬による治療を選びました。この決断は間違いでした。それから数ヵ月後、僕はDrに治療をやめることを告げ残りを好きなように生きようと決めました。アルバイトを始めたり、今度は先輩を頼って三重県に行ったりと。本当に残りの命を覚悟して行きました。でも、三重県に行ってとてもいい経験をいっぱいしました。アルバイト先でたくさんの仲間もでき楽しい一年ちょっとを過ごしました。アルバイト先で大学に通っている同い年の友達に大学に連れて行ってもらい一緒に講義を受けたり、いい体験をしました。いつも、頭の中には「このままずっと今のいい状態でいられたなら…」そう、願うばかりでした。
でも、病気が再発していました。自業自得です。覚悟はしていましたが…自分で決めたことだから。この時、「もう…生きたから…いいと…21歳で僕は終わるんだなって。世間からすると人、一人の人生なんて大したことなんかないんだな。」悲観的になったり、かと言って今度は、「Drに骨髄移植はできるの?まだ生きられるの?どうなるのですか?」いま振り返ると情緒不安定になっていたと思います。そして、都城の病院で治療が始まりました。ここでの治療が一番辛かった。個室で一人。抗がん剤の投与が始まり、髪の毛がぱさぱさ抜け落ちはじめ嘔吐もあり、とてもしんどかった。ほとんど抗がん剤の副作用による発熱や嘔吐で疲れ果ててしまうのです。治療が始まるたんびにこのような副作用でいつも嫌な気分になりもう、いいのに…と毎回思っていました。それでも、Drや看護師さん、家族、友人の応援に応えようと葛藤に耐えながら治療を続けていました。夜になると、孤独感と不安と何か分からない…恐怖感に毎晩、悩まされていました。病室から見える弁当屋さんに弁当を買いに来る人たちを毎晩一人で眺めていました。僕は今、弁当も買う事も出来ない…。ちょっとした事が出来ない…向こう側の人達には関係のない事なんだ。みんな幸せそうだな~と。家族連れで弁当を買いに来たり、恋人同士や友達同士、仕事帰りの人、学生、病院の先生や看護師さん、いろんな人たちが買いに来るんだな~羨ましいな~何故か羨望の眼差しで弁当屋さんが閉店するまでよく眺めていました。これが僕にとっては癒し?だったのかな。
しばらくして、この年の6月ごろから骨髄移植の可能性に賭けて、骨髄バンクに登録したり親と弟のHLAの型(白血球の中の型)の適合検査を行いました。さすがに骨髄バンクに登録されているドナーの皆さんとの適合はありませんでした。適合率はHLAの型にもよりますがかなり低いです。兄弟間で4分の一での適合率。非血縁者間で数万分の一での適合率。あくまでも適合率ですので…よく聞く数字です。それでも、骨髄バンクのスタッフが海外のドナーとの適合はないか、探してくれていたようです。それでも適合者はいませんでした。さらに、適合率は低くなるわけですから…僕は、この事をDrから聞かされた時、骨髄バンクのスタッフにとても感謝していました。ゼロに近い可能性を追い求めて…。
数日後に、Drと二人で今後の治療方針について話し合いをしました。この時点でのHLAの適合者なし。次の治療へ向けての説明がありました。今後、抗がん剤と全身への放射線による治療。そして、その治療に対するリスクなど。投薬や放射線の治療による病気の完治は見込めないと。僕は治療の説明など、どうでもよかった。Drに「最終的には僕の体はどうなるのですかと?」そっちの方が知りたかった… Drは「再発の度にさらに強い抗がん剤を投与しながら全身への放射線治療を繰り返し行う」という事でした。続けてDrが「その間に、体は弱っていきいろいろな合併症を併発してそして、最後は亡くなる…」と。「そこまでして生きたくない…」そう答えた様な記憶があります。二人の間で沈黙が続きました。もちろん、Drは最後まで戦うつもりですし、複雑でした。
病気になった時から「安楽死」という言葉がいつも僕の頭の中にはありました。当然、日本の病院ではそんなことしたら大問題になる。「犬や猫、競走馬やたくさんの動物たちは簡単に殺すのに…なぜ?僕にもそうして欲しかった…」このような葛藤を繰り返しながら…憂鬱な入院生活を送っていました。時折、来てくれる友人の前では良く見せようと取り繕っていました。帰った後に何となく寂しさや虚無感にさらされる時期が続いていました。
しばらくして昼過ぎぐらいに、Drが嬉しそうに病室に入ってきて弟とのHLAの型が一致したとの事でした。この当時、弟は11歳。体は小さい方でした。子供だからHLAの適合検査をしていなかったんです。まず、無理だろうと。万が一という事もあり得るので検査したら適合していた…「こんな、そばにいたのか…適合者が。弟という存在に驚きと感動と感謝が込み上げてきました。これに賭けてみよう。」それからが、あっという間でした。骨髄移植へ向けての最後の治療が始まりました。骨髄移植を行う病院を東京に決めて弟の夏休みに合わせて東京へと。この時も、Drと二人で話をしました。Drと過去の患者さんとの話でした。その患者さんは、女の子が一人とその患者さん(女性)の二人家族でした。ドナーも見つかっておりましたが、金銭的な問題で骨髄移植はできませんでした。やがて、その患者さんは亡くなったそうです。Drがそう話すと目を下へ向けてこう、言いました。「君は、いい方だ。骨髄移植ができるんだから…中には家庭の事情や金銭的な問題で骨髄移植ができない患者さんもいる」と、この事を聞いてから、僕自身も病気に対する心構えが変わってきました。Drもこの時から、過去の患者さんとの話をよくするようになりました。今、思うと「生きる希望を与えてくれていたんだろう」と。
あと、僕は他の患者さんから「お前は生きなさい」と、よく言われていました。でも、ほとんどの方がそう言った後に亡くなっていった。亡くなる2、3にち前まで病室で話をした患者さんもいた。おそらくモルヒネを使っていたのかもしれないけど、話をしても答えが返ってくるのに数分ぐらいかかる時もあった。それでも僕は待ちながらその患者さんとの会話を続けていた…確実にこの患者さんが亡くなるのは感じていました。人が死ぬことに対してすごく恐怖心がありました。「でも、少しでもいてあげたい…」そんな気持ちがあったんだろうと思います。その患者さんが亡くなって病院から家へ搬送されるのを離れた所から見ていました。他の人に気付かれない様に見送りました。亡くなる人、これから生き残れる可能性がある僕。いろいろな言葉が頭の中を浮かんでは消えていました。「諸行無常」、「栄枯盛衰」。歌の一部にある「何でも無い様な事が幸せだったと思う」など。この日は、病室のベッドでふてくされていた様な思い出があります。でも、確実に骨髄移植までの日時が近付いている…生きろという事なのか?複雑な思いでした。7月の初めに退院。この時、お婆さんに言われた一言でみんなの前で大泣きしました。安堵したのかよく解りませんでした。担当の看護師さんも一緒に泣いていました。みんなもいろいろな思いがあったんだな。本当に、言葉では表せないほどありがたいと。泣きながらそう思いました。
そして8月。東京の病院へ。骨髄移植の前処置が始まりました。僕は、末梢血幹細胞移植という方法で移植をすることになっていました。この方法は、ドナーの身体への負担が少なくて済むので当時、11歳の弟に対して一番いい方法でした。末梢血幹細胞移植はドナーにG-CSFという白血球を一時的に上げる薬を皮下注射による方法で数日間使います。この時に、骨髄の中にある骨髄幹細胞が血液中に流れで出てくるので採取機で骨髄幹細胞を採取します。採取機とドナーを繋いだ状態になります。献血をされた方は知っていると思いますが似たような機械です。成分献血に近い感じです。弟は、末梢血幹細胞移植に必要な骨髄細胞が採れたので一週間ぐらいで退院。本当に大役を11歳ながら果してくれました。誇りに思います。感謝。感激です。一方僕は、前処置が始まっていました。3日間、集中的に抗がん剤を投与して1日2回の全身への放射線治療。完全に悪い細胞をたたいてから移植日を待つのみの状態に。この時、すでに無菌室での生活が始まっていました。簡易無菌室なのでDrや担当の看護師さん家族の出入りはできました。完全無菌室ですと出入りはできません。本当に必要な時以外は。まだ、僕は良い方でした。比較的、気分がいい時が多かったので音楽を聴いたり、TVゲームをしたりしていました。キツイ時もありました。発熱や嘔吐。そんな中で1週間たち骨髄の検査をして経過を見てさらに2週間後の骨髄の検査では生着(骨髄が正常に働いている状態)が見られたので一応は移植成功。なんか、トントン拍子に進んでいきました。それからしばらくして、個室に移って白血球の回復を待ってから一般病室へと。もう、その頃には11月になっていました。3ヶ月半あっという間でした。病院の外はもうすぐ冬を感じるような気配がありました。11月の21日に退院。
でも、これで終わった訳ではありませんでした。今度はGVHD。簡単に言うと移植後の拒絶反応です。1年ぐらいは良かったんですが…腎臓へ拒絶反応が…こういう事もあると覚悟はしていました。が、いざなってみると何で終わらないのかな?生きていける様になれると思っていた時に。また入院。腎臓の治療。今は、飲み薬でいい状態を保っています。今では、これもオマケといつも言っています。今は、白血病は完治しています。なんだかんだで、回想しながら書きました。記憶なので断片的になっていたり曖昧な部分もあると思います。本当に、お父さん、お母さん、おじさん、おばさん、いとこ、親戚、地域の皆様、友人のみんな。それから、H.H君とK.T君に感謝しています。そして、僕に関わった全ての医療関係の皆様。陰ながら支えてくれた妹。一番の命の恩人弟。全てにありがとうを。言葉にできません…本当にありがとう。これしか言えませんが…
もう、8年半…過ぎました。途中で治療を止めてまで追い求めた自由。これは、結果的に僕にはプラスになりました。無謀、命を粗末にするなとか、カッコつけてんじゃねーよとか、いろいろな意見があると思います。でも、こうして生きています。そうそう、血液型は弟もA型なので変わりませんでした。でも、「お前はA型なのにB型の性格だと」。友人のH.H君によく言われます。それは、違うと思うが…ま~いいか~。
それから人生観変わります。命についてよく考えます。そして哲学的に物事を考えたり、言ったりします。どうしてもそうなりますよ。で、「お前の表現は難しい」とよく友人のH.H君に言われたりします。そして「アインシュタインの150の言葉」この本をきっかけに物理学や量子力学の本を読むようになりました。あと、月刊誌の「ニュートン」も。そのせいかな?僕はものすごく客観的になりました。それはそれで良いのですが…悪く言えば人との間合いを多く取るようになりました。最近では、なるべく多くの人と接するようにはなりましたが…まだまだですが、生きていられることを実感しています。時々なぜ生きているんだろうと?急に思ったりすることもあります。これも僕に与えられたテーマなのか?と思う日々です。もう、そろそろ終わりにします。この度は経験者の立場から言わせてもらいました。
追伸、白血病の事を書くきっかけを作ってくれた『若ダンナ』様。そして、わいおいブログの皆様。ありがとう。

